本の紹介 其の八十七『これが九州方言の底力!』

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No.119『これが九州方言の底力!』
   編者:九州方言研究会
   出版社:大修館書店
   価格:1,365円(本体1,300円+税)
   発行年月:2009年5月10日
   ISBN:9784469222005
   購入場所:東京・丸の内/丸善丸の内本店
   購入時期:2009年6月
   備考:2009年6月10日(第2刷)

 九州方言と言われて思いつくことばと言ったら何でしょうか。九州以外の地方に住む人にとっては、「~バイ」や「~タイ」といった独特の終助詞。「良い」などの形容詞が「良」といったカ語尾に終わること。「けれども」を表す「バッテン」も有名ですね。ただ、それぞれのことばが九州のどの辺りの方言なのか、と聞かれたら的確に答えるのは難しいかも知れません。ひとくちに九州と言っても7県があり、ひとつの県の中でも方言分布はけっこう複雑なのです。

 日本の本土方言を大きく3つに分けた場合、一般的には本州東部方言本州西部方言九州方言とされます(この分け方は、1953年の東条操氏によるものですが、平山輝男氏のように、八丈島方言本州東部方言から独立させて4分類する考え方もあります)。
 さらに
九州方言は以下の3つに分類できます。
 ①福岡県東部・大分県北部(旧豊前国)、大分県中南部(旧豊後国)、都城周辺を除いた宮崎県の大部分(旧日向国北中部)で話される
豊日(ほうにち)方言
 ②福岡県西部(旧筑前国・筑後国)、佐賀県と壱岐・対馬を含む長崎県(旧肥前国)、熊本県(旧肥後国)、また大分県日田市周辺は旧国名で言うと豊後にあたりますが、これを含めた以上の地域で話されるのが肥筑(ひちく)方言
 ③鹿児島県全域(旧薩摩国、大隈国)で話される薩隅(さつぐう)方言があります。なお、宮崎県南西部の諸県地方で使用される諸県(もろかた)方言は、歴史的に薩隅文化圏の中の一方言であるため、これを含めて
薩隅・諸県方言と呼ぶこともあります。

 これらのうち、豊日方言は、その使用域が九州東北部の工業都市を含み、瀬戸内海交通の影響によるものか、九州方言的な特徴があまり目立たず、中国方言などとの共通点が多い方言です。
 連母音の融合も盛んに行われ、例えば、「赤い」は「アケー[ ai > e: ]」、「白い」は「シリー[ oi > i : ]」のようになります。この連母音の融合は、他の
九州方言にも見られる特徴で、本州東部方言中国方言とも共通する特徴です。
 また、国語史上で言われる開合の別が残っているのも特色のひとつでしょう。
豊日方言では、アウ [ au ] とオウ [ ou ] との区別が、それぞれオー [ o: ] とウー [ u: ] の形で残されています。例えば、「買う」はコー [ ko: ] 、「追う」は ウー[ u: ] のように言います。これは恐らく、 [ au > ɔ: > o: ] 、[ ou > o: > u: ] のような変遷を辿ってきたものと考えられます(参考:本の紹介 其の八十四『出雲弁検定教科書』)。
 
豊日方言のアクセントは、旧豊前・豊後の地域を中心として、ほぼ東京式アクセントに準じたものが行われています。大分方言の二拍名詞のアクセントを例に図示すると次のようになります。○は低い拍、●は高い拍、△▲は助詞(「が」や「は」など)が付いた形で、それぞれ低い拍、高い拍となります。また[ ]で示したものは共通語のアクセントです。

 第一類(鼻・飴・・・) ○●・○●▲ [○●・○●▲]
 第二類(橋・音・・・) ○●・○●▲ [○●・○●△] 
 第三類(花・山・・・) ○●・○●△ [○●・○●△]
 第四類(箸・笠・・・) ●○・●○△ [●○・●○△]
 第語類(雨・猿・・・) ●○・●○△ [●○・●○△]

 このように二拍名詞を例にすると、大分方言共通語のアクセント体系はよく似ていると言えます。異なる点は、共通語では第二類名詞と第三類名詞が統合していますが、大分方言では第一類名詞と第二類名詞が統合して、ともに平板型になっています。すなわち、両者で異なるのは第二類名詞のアクセントだけと言うことです。この大分方言のアクセント体系のように、第一・二類名詞が統合して平板化するのは、出雲方言奥羽方言の大部分とも共通する点です。
 なお、同じ豊日方言でも、
日向方言(宮崎方言)では、これらの区別が崩れて、型知覚を失った崩壊アクセントになっています。
 文法面でも豊日方言にはいくつかの興味深い点が指摘されています。
九州方言全体について、「建つる」のような下二段活用の名残が広い地域で保存されていることは有名ですが、豊日方言の大部分では、「起くる」のような上二段活用や「死ぬる」のようなナ行変格活用も保存されています。また、旧豊前にあたる地域では、「食うコソケレ・・・」のような係り結びの法則も広い範囲で保存されており、これは本州西部方言の富山や徳島の方言などと似ています。
 「~しに行く」を「~しゲー行く」といった言い方も、旧豊前・豊後地域の方言では聞かれます。
 また九州の方言に特徴的とされる形容詞のカ語尾は、豊日方言ではほとんど聞かれません。語彙の面では、
中国方言と共通のものも多く見られますが、地理的に近い四国方言とも共通するものが多く見られます。

 肥筑方言は、その使用域北部が、工業都市である豊日方言使用域と連なり、豊日方言同様に中国方言に近い面を示している反面、中・南部では、形容詞のカ語尾、「けれども」を表す「バッテン」、「バイ」や「タイ」といった終助詞の使用といった、一般によく知られた九州方言を代表するような特徴を備えている方言といえます。この方言の使用域には、長崎県の五島列島、平戸、天草、壱岐、対馬といった島々も含まれ、九州方言の総合デパートとも言われる熊本方言や、「長崎ばってん江戸べらぼう」の長崎方言など、個性的な方言を多く抱えているため、その様相はかなり複雑になっています。
 肥筑方言のアクセント体系については、次に挙げる薩隅方言と共通する点が多いので、そちらで触れることにします。
 肥筑方言の文法面では、進行・継続態と結果態にそれぞれヨル・チョル(トル)が用いられ、「雨ノ(ン)降りヨル」(今まさに雨が降っている)、「雨ノ(ン)降っチョル」(地面が濡れていることなどから、雨が降っていた)といったアスペクトの区別が見られます。否定表現には読まンヂャッタ・読まンダッタ・読ま(ン)ザッタなどが用いられます。推量表現には、古語の「らむ」に由来するローや、「つらむ」に由来するツローなどが使われます。
 また、主格の助詞「が」に、「」やそれが転化した「」を用いたり、「~のようだ」を「~ンゴタル」という表現で「花ンゴタル」(花のようだ)といった言い方もします。なお、旧筑前の高齢層では、「花ノゴトアル」のように原型に近い形で表現する場合もあります。目的格を示す助詞「を」には、
奥羽方言と通じる「」を使用したり、「遊びに行く」の「に」にあたる助詞に、ガイ・ギャ・ゲなどを用いて「遊びゲ(ギャ)行く」のように表現するのも肥筑方言の特色です。

 最後の薩隅(・諸県)方言は、鹿児島県の薩摩地方、大隈地方に、属島の甑(こしき)島、屋久島、種子島、トカラ列島、さらに宮崎県のうち、西南部の都城市周辺、諸県地方を合わせた地域で使用されています。この薩隅方言は、九州方言の中でも最も特色ある方言で、日本全体の方言の中でも、東部方言津軽方言とともによく引き合いに出されますが、それほどに珍しい特徴の多い方言と言えます。
 母音の無声化と呼ばれる現象は、北海道の都市部、奥羽南部、関東、北陸、出雲地方などの方言に見られますが、
九州方言でも、種子島、屋久島、甑島などは例外として、この現象は顕著に観察され、特に薩隅方言および肥筑方言の佐賀、五島列島の一部の方言では徹底した母音の無声化が起こります。
 
現代共通語を代表例として挙げると、[ i ] と[ ɯ ] の母音は、無声子音 [ k , ʃ , s , ʧ , ts , ç , ɸ , p ] に挟まれた環境に立つときと、語末の拍でアクセントの核がないキ・ク・シ・シュ・ス・チ・ツ・ヒ・フ・ピ・プとに無声化が多く起こります。つまり、本来は有声音であるはずの母音が、息によって声帯を振動させない無声音と同じように発音される現象のことです。
 例:アタ [ aʃi ta ](明日)、ク [ kikɯ ](菊)
   ~デ[-desɯ ](です)、ア [ aki ](秋)
 薩隅方言などに見られる母音の無声化は、母音の脱落化、あるいは促音化、撥音化とも呼べるものです。一般的には入声音化と呼ばれています。この方言に見られる入声音化とは、語末の [ i ] 、 [ u ] が脱落した結果、促音化して「柿」、「書く」などはすべてカッ [ kaт] 、「首」、「靴」、「口」、「釘」などはすべてクッ [ kuт] のように発音されます。この [ т ] は
韓国語パッチム広東語インドネシア語などに広く見られる破裂させない語末子音です。また、この入声音化した [ т ] の代わりに、声門閉鎖音 [ ʔ ] が [ kaʔ ](柿・書く)のように現れることもあります。いずれにしても、薩隅方言には日本語としては大変珍しいCVCは子音音素、は母音音素)という音節構造があるということです。なお、この入声音 [ т ] は拍として独立することはなく、前の母音とひとまとまりになって一音節を形成します。
 開合の別は、薩隅方言にも見られます。
豊日方言では、アウ [ au ] とオウ [ ou ] との区別が、それぞれオー [ o: ] とウー [ u: ] の形で残されていますが、薩隅方言および諸県方言ではそれぞれ [ o ] 、[ u ] のように短く言うのが一般的です。従って、「買う」、「追う」はそれぞれ [ ko ] 、 [ u ] のようになります。また、「多い」は「ウカ」と言いますが、これは豊日方言のようなオー・ウーを経て短い拍のオ・ウになったものと考えられます。
 薩隅方言のアクセントは、前に出てきた肥筑方言のうち、熊本の海岸側、佐賀・長崎両県の約半分を占める地域と同じく、いわゆる二型アクセントと呼ばれるものです。
鹿児島方言の二拍名詞を例に図示すると次のようになります。

 第一類(鼻・飴・・・) ●○・○●△ [○●・○●▲]
 第二類(橋・音・・・) ●○・○●△ [○●・○●△] 
 第三類(花・山・・・) ○●・○○▲ [○●・○●△]
 第四類(箸・笠・・・) ○●・○○▲ [●○・●○△]
 第五類(雨・猿・・・) ○●・○○▲ [●○・●○△]

 鹿児島方言に見られる二型アクセントは、第三類名詞が第四類・第五類名詞と統合して、第一類・第二類名詞の型と対立しています。第一類・第二類名詞が大分方言などと同じように統合していることが、薩隅・肥筑および豊日方言間の近親性を示す根拠とも言えるもので、この二型アクセントは、東京式に準じた大分方言のような型から派生したものと考えられます。
 薩隅方言の大部分と肥筑方言の過半域で行われている九州の二型アクセントというのは、ひとつの型にはアクセント節の後から二拍目にアクセントの核があり(A型)、もうひとつの型は最後の拍にアクセントの核が来る(B型)というもので、すべてのアクセント節はこのどちらかの型に当てはまります。これを
鹿児島方言で見てみると次のようになります。

 A型の例
  2拍の例(鼻・日が・巻く・・・) ●○
  3拍の例(田舎・鼻が・遊ぶ・・・) ○●○
  4拍の例(七夕・田舎が・働く・・・) ○○●○
 B型の例
  2拍の例(花・火が・蒔く・・・) ○●
  3拍の例(油・花が・余る・・・) ○○●
  4拍の例(朝顔・油が・喜ぶ・・・) ○○○●

 さらに、九州二型アクセントが行われるいくつかの方言について、二拍のアクセント節の型を図示してみると次のようになります。

 第一・第二類名詞、第一類動詞、他
  長崎 ●○ / 佐賀(南部) ●○
  熊本(北部) ●○ / 鹿児島 ●○
 第三・第四・第五類名詞、第二類動詞、他
  長崎 ○● / 佐賀(南部) ○○
  熊本(北部) ○○ / 鹿児島 ○●

 九州では、この二型アクセントと大分などで行われている東京式アクセントとの間に挟まれた地域に帯状の崩壊アクセント地域があります。
 その他、宮崎県の都城市周辺、鹿児島県の志布志を中心とする地域などでは、薩隅方言に近い
諸県方言が話されています。この諸県方言のうち、えびの周辺では鹿児島同様の二型アクセントが行われ、北諸県郡と西諸県郡では日向方言と同じ崩壊アクセントになっています。都城周辺および志布志では、統合一型式アクセントと呼ばれるものが行われています。これは、型の対立は失われていても型知覚のあるもので、すべてのアクセント節が、最後の音節だけ高く発音されるものです。都城方言を例に取ると次のようになります。

 飴 / 飴が ○● / ○○●
 雨 / 雨が ○● / ○○●
 桜 / 桜が ○○● / ○○○●

 このアクセントを「尾高一型」と呼ぶことがあります。尾高一型崩壊アクセント(無型アクセント)も「飴」と「雨」、「箸」と「橋」の区別がないという点から言えば同じですが、崩壊アクセント方言の話し手がアクセント型の意識をまったく持たないのに対し、尾高一型方言の話し手は最後の拍を高く発音するというアクセントの型意識を持っています。この点において両者は本質的に異なるものです。
 この尾高一型は、先の
鹿児島方言の二型のうち、A型のアクセント核が1音節分ずれてB型に統合して一型になったもので、このアクセントの型を統合一型式アクセントと呼んでいます。諸県方言以外では、長崎県五島列島の一部でもこの統合一型式アクセントが行われています。
 また、福岡市を中心として東京式と二型式との中間のような曖昧アクセントも聞かれます。

 この他に九州方言全体について言える特徴としては、連母音エイ [ ei ] が共通語などのようにエー [ e: ] とならず、エイ [ ei ] としっかり発音される。佐賀県の大半の地域、長崎県五島列島南部、大分県西北部の日田・玖珠、および南部の南海部郡の山間部、宮崎県の中部・南部、鹿児島県のほぼ全域では四つがなの区別がある。福岡県などの一部を除き、「火事・菓子・正月」などのカ・ガの部分をクヮ [ kwa ] ・ グヮ [ gwa ] と発音する。「先生」などのシェ [ ʃe ] のように発音する傾向などは広く九州方言に見られる特徴です。ただ、このような古音は若年層ではほとんど見られなくなりました。
 また、
九州方言では、語中・語末の行音が鼻音にならず、破裂音の [ ga ] 行音である地域が広く、この点では中国方言雲伯方言と似ています。九州方言において鼻音の [ ŋ ] は、わずかに薩隅方言の一部地域や、肥筑方言のうちの佐賀県唐津市のごく一部と、壱岐・対馬の方言などに聞かれるだけです。
 動詞・形容詞のウ音便形
九州方言で広く聞かれます。ウトータ(歌った)・コータ(買った)・アコー(赤く)・シロー(白く)・・・・・のようになり、薩隅方言では、ウトタ・コタ・アコ・シル・・・・・のように短く発音されます。
 行や行にもウ音便があって、ヨーダ(呼んだ・読んだ)、トーダ(飛んだ)なども広く聞かれます。都城市から鹿児島県にかけて「飛んだ」がツダとなるのもウ音便から変化したものです。この他、音便の残存、「借りる・足りる」などをカル・タルのように四段活用で用いることなども特徴的でしょう。エー書かん・書かん(書けない)といった不可能表現は、
西部方言とも通じる点です。
 目的格「を」を表す助詞にを使用するという点以外でも、方向を示す助詞に肥築方言サン・サ二ャー系、
豊日方言サネ・シネ系、薩隅方言サメ・セ系の語が用いられ、東北方言で方向を示す助詞との共通点が見出されます。ともにかつての京都で平安時代から鎌倉時代にかけて使用された「さまに・さまへ」という形に由来しています。 

 以上のように九州方言は、音韻・アクセント・文法の面でもかなりの特色が目立つ方言と言えます。その中には奥羽(東北)方言八丈島方言などと通じる点もいくらかあります。また、方言周圏論的な面で、辺地の奥羽方言九州方言とが似ている面のあることも否定できませんが、それよりも地理的に近く、交通や文化の交流が行われた西部方言との間に多くの点で近似性が見出されます。 

  『これが九州方言の底力!』は、多くの執筆陣によってなされた九州方言における最新の研究結果の賜物です。
 これまであまり気にすることのなかった終助詞「~バイ」と「~タイ」の使い分けなどは、いざ説明を求められるとうまく説明できないことが多かったのではと思いますが、この本ではそういった些細な疑問に的確な答えを出してくれます。
 九州各地で生まれている若者ことばなどにも焦点を当てて、多角的に
九州方言を扱っている点で非常に好感が持てます。
 このようなスタイルで他地域の方言書が出版されれば、方言もますます身近なものとして感じられることと思います。 

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本の紹介 其の八十六『クルド語入門』

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No.118『クルド語入門』
   著者:縄田鉄男 出版社:大学書林
   価格:4,935円(本体4,700円+税)
   発行年月:2002年12月20日
   ISBN:4475018609
   購入場所:神奈川・川崎/有隣堂川崎BE店
   購入時期:2003年1月

 クルド語は、印欧語族イラン語派北西方言群に属しています。イラン語派内において比較的知られている言語ではバローチー語に近く、後に述べる理由から南西方言群に分類されるペルシア語と近いことも事実です。

 クルド語は、トルコ、イラク、イラン、シリアにまたがる山岳地帯(クルディスターン)に住むクルド人によって話されています。これらの地域以外にも、トルクメニスタンやアルメニア、アゼルバイジャン、グルジアなどにも少数のクルド人が暮らしています。政治的に統一を欠き、各国に離散して暮らすクルド人(クルド族)の正確な人口を把握することは困難ですが、おおよそ2,500万から3,000万人程度ではないかと推測されます。この数は、いずれにしても、イラン語派内の言語においては、ペルシア語パシュトー語に次いで3番目に話者の多い大言語ということになります。

 クルド語には、北部、中央、南部という3つの方言が認められています。
 
北部方言は、旧ソ連の諸共和国、トルコ、ティグリス川の支流大ザブ以北のイラク、および、イランのクルディスターン北部で使用されています。この方言の話者の自称がクルマンジー(Kurmanj / Kurmanjī)であるため、クルマンジー方言とも呼ばれます。イラン北東部のホラーサーンやトルクメンに暮らすクルド人は、16世紀から18世紀にかけて強制移住させられてこれらの地に定住した人々であり、その言語もクルマンジー方言です。
 
中央方言は、イラク北東部のクルド人居住域(アルビール県、ダフーク県、スライマーニーヤ県)を中心に、その周辺のモースルやキルクークなどを含めた地域、および、イランのマハーバード、サナンダジなどで話されています。この方言は一般的にソーラーニーSōrānī方言と呼ばれています。
 最後の
南部方言は、ソーラーニー方言よりも南東の地域で使用され、イランのケルマーンシャーの言語がその代表とされます。この南部方言の研究はまだ十分に進んでいません。
 
クルマンジー方言ソーラーニー方言は、文章語の地位を確立しており、種々の出版物も19世紀の末から刊行されています。クルマンジー方言では、地域によって2種類の文字表記が行われています。すなわち、トルコやシリアではラテン文字表記が、旧ソ連諸国では、キリル文字による表記が採用されています。スライマーニーヤの方言を基にしたソーラーニー方言は、アラビア文字によって表記されます。なお、クルド人(族)全体に広く通用する標準語はまだ確立されていないのが現状です。

 『クルド語入門』は、中央(Sōrānī)方言スライマーニーヤ標準語の入門書です。この先で見ていくクルド語の概要は、このスライマーニーヤの方言に関するものであり、必要に応じて北部方言との差異についても触れることにします。

 スライマーニーヤ方言に見られる音素は次のとおりです。
 《子音》
 p , b , f , v , m , w , t , d , s , z , n , l , ł , r , ř , č ,
ǰ , š , ž , y , k , g , x , ɣ , ŋ , q , ħ , , h
 《母音》
 ī , i , ē , ø , a , ā , ō , u , ū
 子音で注意すべきものとしては、舌先弾き音/ r / と震え音/ ř / 、明るい/ l / と暗い/ ł / 、/ h / と無声咽頭摩擦音/ ħ / の対立がある点です。

 アクセントは、動詞以外の語では、基本的に最後の音節に来ます。ただし、呼びかけとして使われる名詞は、語頭にアクセントがあります。動詞では、アクセントの位置が活用によって変化します。その際の基本的なルールは以下のとおりです。
 ①叙想法の動詞接頭辞 bi (b)はアクセントをとる。
 ②命令法の動詞接頭辞 bi (b)はアクセントをとる。
 ③動詞否定接頭辞{na , , ma}は常にアクセントをとる。
 ④動詞語幹(現在語幹と過去語幹)の第1音節にアクセントが来る。

 名詞には、単数と複数の数の区別が存在しますが、性や格による区別はありません。この方言におけるきわめて重要な特徴は、名詞が限定されているか、限定されていないかを示す接尾辞を持つことです。名詞の限定を示す接尾辞は、-aká , -ká(-yaká , -waká)、非限定を示す接尾辞は、-ē(k), -yak(-yē)です。
 kuř-aká 「(その)少年」、qāłi-yaká 「(その)絨毯」
  mamlakat-ēk 「(ある)国」、dēyak 「(ある)村」

 所有関係は、エザーフェ(-ī ~ -y)と呼ばれる連結辞によって表されます。クルド語は、語に見られる音韻変化から、ペルシア語に代表される南西方言群と帰属を異にするのは明らかですが、このエザーフェを持つことから、ペルシア語に近親性を示すことも事実だと言えます。また、クルド語エザーフェは固有のものであり、ペルシア語の影響によるものではない、ということは特筆しておくべきことでしょう。
 sar-ī(頭) binīādam(男たち) 「男たちの頭」
 māmōstā-y(先生) min(私) 「私の先生」

 形容詞は常に無変化で、述語的用法と、付加的用法があります。付加的用法で使用される場合には、通常、エザーフェによって被修飾語に後置されます。
 'āw-ī(水) sārd(冷たい)「冷たい水」
 šār-ēk-ī(ある都市) gawra(大きい)「ある大きな都市」

 動詞には、現在語幹と過去語幹とがあり、この点は、他の中世・現代イラン語派の諸言語と共通しています。
 現在語幹からは、①命令、②直説法現在、③接続法現在が、過去語幹からは、④過去、⑤未完了過去、⑥完了、⑦過去完了、⑧接続法の完了、⑨aおよび⑨b非現実、⑩過去分詞、⑪不定詞の諸形が形成されます。

 受動の語幹は、他動詞の現在語幹に -rē- を付加することで形成される。過去語幹は、-rē- -rā- にすることで得られる。
 kužrē- / kužrā- 「殺される」< kuž- / kušt- 「殺す」 

 クルド語は類型論的にSOV型言語で、代表的な語順をまとめると概ね次のようになります。
 ①所有格名詞は、それによって限定される名詞にエザーフェを介して後置される。
  nāw-ī(名前) xastaxāna(病院)「病院の名前」
 ②形容詞は、被修飾語にエザーフェを介して後置される。
  kūlaka-y(カボチャ) tāmdār(美味しい)「美味しいカボチャ」
 ③
クルド語は前置詞型の言語であり、後置詞は常に前置詞とともに用いられる。
  la([前]場所~で) landan(ロンドン)「ロンドンで」
  la 'afɣānistān-ī(アフガニスタン) 'amřō-dā(今日[-後])「今日のアフガニスタンにおいて」 *この場合の la...dā(・・・において)は前置詞と後置詞が共起して慣用句的に使われる。
 ④関係節は先行詞に後続する。エザーフェも関係詞として使われうる。

 その他の特徴として、指示代名詞には、近称と遠称の区別がある。人称代名詞には、独立形と接尾形がある、といった点を挙げることができます。
 
中央(Sōrānī)方言は、一般的に言って、言語変化が激しく、名詞の文法的範疇として、性や格の区別を失っているなど、文法的簡素化が他の方言に比べて著しいのも特徴です。これは、他のイラン系言語、特にペルシア語アフロ・アジア語族アラビア語などとの言語接触の結果による言語変容の一例とも言えます。

 北部(Kurmanj )方言における文法上の主な特徴、特に中央(Sōrānī)方言と異なる点は、

 ①名詞に性(男性、女性)と格(直格、斜格)の区別が存在すること。  
 ②名詞に定・不定の区別は存在するが、限定名詞を示す接尾辞 -aka は認められない。
 ③代名詞にも、名詞同様の格の区別が存在するが、接尾人称代名詞は認められない。
 ④他動詞の過去語幹により形成される時制では、能各構文をとる。この場合、行為者は斜格の名詞、および代名詞によって、論理的目的語は、直格の名詞、および代名詞によって表され、動詞はこの論理的目的語に一致する。
 min(私[斜]) xawnak(夢) dīt(見た[3単過去])「私は夢を見た」
 ⑤-rē- / -rā- による受動語幹は認められず、受動表現を作る場合には、不定詞と小辞 -a をともなった動詞 hātin (来る)による、迂言表現が使われる。
 watuv(そのように) dē-hēt-a([未来]来る[3単]~へ) kuštin(殺す[不定詞])「そのようにして彼は殺されるだろう」

といったところです。北部(Kurmanj )方言は、中央(Sōrānī)方言に比べて、一般的に保守的傾向の強い言語だといえます。

 トルコでは、これまでクルド人という民族は存在しないという立場から、トルコ議会でのクルド語を含めたトルコ語以外での演説を禁止したり、国営、民間を問わずクルド語による放送、公の場でのクルド語教育を禁止してきました。
 しかし、最近になってトルコの国営テレビが
クルド語による24時間放送TRT6を開設し、その開設にあたって、エルドアン首相がクルド語による短いスピーチを行うなど、トルコにおけるクルド語の環境は少しずつではありますが改善されているように見られます。
 先日の読売新聞の国際欄でも、「トルコの大学で
クルド語教育が認められることになった」という記事を読みました。これはトルコが長年の夢であるEU加盟に関連して、これまでEU側が求めてきたトルコ国内におけるクルド人の人権状況の改善要求に応える形で実現されたものと思われますが、トルコ国内におけるクルド人の人権状況はまだまだ改善されていると言えるものではありません。

参考:トルコのテレビ局TRT6クルド語チャンネル) 

 『クルド語入門』は、たまたま川崎BEの有隣堂という書店でみつけて購入しました。ちょうど出版されたばかりの頃で、それまでは同じ大学書林から出版されていた『クルド語基礎語彙集』しか手に入らなかったため、日本語で読めるクルド語文法書の登場に嬉しくなったものです。
 著者の縄田鉄男氏は、日本における
ペルシア語学の権威で、『ダリー語文法入門』『パシュトー語文法入門』など、多くのイラン語派諸言語に関する書籍を執筆されています。
 
『クルド語入門』の内容は、クルド語の文法事項に関する解説が中心ですが、縄田氏による上述の『文法入門』シリーズに比べると、はるかに基本事項に絞った記述となっています。これ1冊ではクルド語文法の大まかな輪郭しか学べませんが、これを基にして英語などで書かれたより専門的な文法書に移行することは可能でしょう。 

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本の紹介 其の八十五「ビルマ語」

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No.116
『《CDエクスプレス》ビルマ語』
   著者:加藤昌彦 出版社:白水社
   価格:3,150円(本体3,000円+税)
   発行年月:2004年7月10日
   ISBN:4560006431
   購入場所:東京・神保町/三省堂書店神田本店
   購入時期:2007年

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No.117
『ミャンマー文字レッスン』
   編者:日本ミャンマー・カルチャーセンター
   出版社:国際語学社
   価格:1,575円(本体1,500円+税)
   発行年月:2004年9月29日
   ISBN:4877312307
   購入場所:東京・神保町/三省堂神田本店
   購入時期:2007年

 
ビルマ語は、シナ・チベット語族チベット・ビルマ語派ロロ・ビルマ語群(語支)に属し、チベット・ビルマ語派を構成する言語のうちでは、チベット語と並んで、多くの話者と古くからの文献を豊富に有する有力な言語です。
 東南アジア大陸部の西部に位置するイラワジ川流域の平野部を中心に、ビルマ(ミャンマー)のほぼ全域で広く通用する言語です。ビルマ国民、およそ5,200万人にとってのリンガ・フランカであり、その70%を占めるビルマ族の母語でもあります。ビルマで唯一の公用語がこの
ビルマ語です。

 ビルマ語の音韻を、ビルマ共通語の基盤となっているラングーン・マンダレー方言をもとに、母音から見ていきます。
 
ビルマ語の母音音素は、口母音と鼻母音の2系列からなっています。

 a , e , i , o , u , ei ,  ou , ai ,  au
  an,     in,    un, ein, oun, ain, aun 

 上段が口母音で、下段が鼻母音です。なお、鼻母音を示す / n / は、[ n ] ではないということに注意が必要です。

 続いて、子音を概観してみます。
 
ビルマ語の子音は、閉鎖音、破擦音、摩擦音に、無声無気音:無声有気音:有声音の3種の対立があり、鼻音、側面音、半母音には、有声音、無声音の対立があります。

 /p , ph , b , m , hm /, /θ, ð /, / t , th , d , n , hn /, /k , kh , g , ŋ , hŋ /, /ʔ [・~ʔ]/ ; /c , ch , j , ň , hň / ; /s , sh , z /, / h / ; /l , hl / , /y , hy / , /w , hw / ; / r /

 上の子音音素表で、鼻音、側面音、半母音の直前に付されている/-h /は、その音素が無声音になることを表しています。
 /
θ, ð /は、歯間摩擦音ではなく、歯間(歯裏)閉鎖音です。舌尖だけでなく、舌端と前舌面前部ももち上がって歯裏、歯茎につき、閉鎖の形成を確実にします。 このうち有声の/ ð /は、本来、ニュースや演説といった形式ばった文語調の言葉遣いにのみ観察されるもので、口語においては、/ n /に交替するのが一般的です。
 一方、/ t /は、歯茎音として扱われますが、より正確には、やや硬口蓋寄りの位置で舌端によって調音されます。 
 声門音/ʔ /は、音節頭位では「声たて音」として、音節末位では声調(第4声)の付随的特徴である声門閉鎖音として実現されます。
 / ň , hň /は、硬口蓋破擦音として扱われますが、これをそれぞれ硬口蓋鼻音/ ɲ /の有声音、無声音として捉えることも可能です。
 / r /は、弾き音 [ ɾ ] ですが、借用語にのみ現われ、しばしば/ y /あるいは/ l /と交替します。
 子音結合は、y , w を、それぞれ副次音とする2種類のみで、三重子音は一般的には存在しません。

 声調は、4種類あります。単語強勢や文強勢の置かれない音節には軽声が現われます。軽声は、常にあいまい母音の ə で現われます。
 ●第1声(平声/ a /)
  低く平らで長く、末尾では軽い上昇を見せることがあります。
 ●第2声(上声、抑声/ â /)
  高く平らで長く 、末尾で下降します。
 ●第3声(去声、降声/ á /)
  高い位置から短めに急下降します。また、付随的特徴として、母音の緊喉性が認められます。これは、
ビルマ語では失われてしまいましたが、ロロ・ビルマ語群の多くの言語に見られる、緊喉母音と非緊喉母音の対立に関わる特徴と考えられています。
 ●第4声(入声、促音/ aʔ /)
  高く平らで短く、二重母音の場合には、高い位置から短めに下降します。いずれの場合も、末尾に声門閉鎖音を伴います。この声門閉鎖音は、歴史的には、かつて存在した末子音 -p , -t , -k , -č の消失に由来するものです。

 ビルマ語には、音節結合に伴って生じる音変化(連音化)が存在します。これは、「海 umi」と「カメ kame」が一語になって「海ガメ umigame」となるような、日本語の連濁に相当する音交替ですが、ビルマ語では有声化と軽声化があります。ここでは、有声化の例だけ示しておきます。
 
 有声化の例: le 「田」+ 「小屋」→ ledê 「農作業小屋」
          pyi 「国」+θu 「人」→ pyiðu 「国民、人民」  

 ビルマ語の語順は日本語と同じくSOV型で、自立語である名詞類と動詞類の後に、付属語である助詞類が置かれ句や節を形成します。統語関係は、語順と格助詞によって示されます。
動詞文においては述語動詞句、名詞文においては述語名詞句といった述語句が常に文末に置かれ、文中での必須要素となります。

 文例: ʔein-hma thəmîn-# sâ-de.
       家-デ ゴハン(-ヲ) 食ベ-タ
     「家でごはんを食べた」

     θu-# ʔəkhú ʔein-gá la-de.
     彼(-ハ) 今 家-カラ 来-タ
     「彼は今家から来た」

     θu-#  beðu-lê.
     彼(-ハ) 誰-カ
     「彼は誰ですか」

 否定文は、否定辞 mə-・・・-phû で動詞(句)をはさんで表します。

 文例: yei-# mə-θauʔ-phu.
     水(-ヲ) 飲マ-ナイ
     「水を飲まない」

 ビルマ語の動詞には、能動形(自動形)と使動形(使役形)が対になったものが約50組ほどあります。これは、能動態と使役態を頭子音の対立、すなわち形態的な対立によって示すタイプのひとつで、チベット・ビルマ語派の多くに見られる現象です。能動形は、頭子音 p, t , k , c , s (無気音)、m , n , ŋ , ň , l , y(有声音)で、使動形は、頭子音 ph , th , kh , ch , sh(有気音)、hm , hn , hŋ , hň , hl , hy (無声化音)を持ちます。

 例:pyei- 「解ける」 phyei- 「解く」
   myín- 「高い」  hmyín- 「高める」
   yó- 「減る」       hyó- 「減らす」

 数詞が名詞に結び付いて用いられる場合には、助数詞が使われます。この助数詞には、類別詞 classifier )と数量詞quantifier )の2つがあります。どちらも、ものを数えるときに使われる語ですが、類別詞が、名詞の分類範疇を示すクラスのような役割を担うのに対し、数量詞は、名詞の数量を示すときの単位として使用されるという点で、性格を異にします。
 類別詞は、
チベット語カチン語を除いて、チベット・ビルマ語派の言語に多く見られます。そのうち多くは、中国語タイ語と同じく、名詞と数詞を結び付ける場合だけでなく、名詞と指示詞、形容詞を結び付けるときにも類別詞が用いられます。しかし、ビルマ語では、日本語と同様に、類別詞・数量詞は、名詞と数詞を結び付けるはたらきしかしません。この場合の語順は、一般的に、「名詞+数詞+助数詞(類別詞、あるいは、数量詞)」となりますが、数詞が10の倍数の場合は、「名詞+(助数詞+)数詞」の語順をとり、助数詞が類別詞であれば、この類別詞は省略することができます。この場合は、名詞の分類範疇を表示しないということになります。   
 
 敬語法としては、助動詞 -pa、または終助詞 -pa による丁寧表現があります。

 文例: shêileiʔ-# mə-θauʔ-pa-né.
     「たばこを吸わないでください」

 聞き手あるいは話題にのぼっている人物が、仏陀、僧侶、あるいは王族である場合、または、話題の事物が、仏陀や僧侶、王族に属している場合は、名詞に接尾辞 -to 「御~」を付した尊敬表現が用いられます。

 例:me-do 「母堂」、daʔ-to 「仏舎利」、shan-do 「仏髪」

 2006年10月10日に、ミャンマー軍事政権が突如として首都をヤンゴンから「ネーピードー」に移転させる旨を宣言しましたが、この「ネーピードー( nei-pyi-do )」は、「王の都」を表す nei-pyi に接尾辞 -to を付したものです。

 また、動詞表現では、僧侶(仏陀も含む)と王の場合で、尊敬表現に用いる動詞を使い分けることがあります。

 例:θwâ- 「行く」/ la- 「来る」
   (僧) cwá- 「いらっしゃる」
   (王) cwáchi- 「行幸する」

    sâ- 「食べる」
   (僧) (shûn) phôun pêi- 「(斎飯の)徳を与える」
   (王) pwê-do te- 「食事を供する」 

 ビルマ語で使用されるビルマ文字は、11世紀の後半にモン族が使用していたデーヴァナーガリー系文字の流れを汲むモン文字を転用して、ビルマ文字としたものと推測されています。ビルマ文字の特徴は、子音を表す基本字母の周囲を取り囲むように、母音記号や声調記号を組み合わせて表されることです。このあたりは基本的に同じインド系文字の流れを汲むタイ文字などと同じです。ビルマ文字のサンプルはコチラのサイトでご覧ください。

 ビルマ語の文献として最古のものはミャゼディ碑文(1112年)です。ミャゼディ碑文とは、石柱と石柱という2種類ある四面体の石柱であり、そこにはパーリ語インド・アーリア諸語)、モン語モン・クメール語族)、ピュー語チベット・ビルマ語派?)、ビルマ語という4種類の言語で、同一内容の事柄が記されていました。そのため、未だに解読されていない語の意味を、既知の言語の知識を援用することで解読できるという利点があります。特に、死語となってしまったピュー語の解読には大きな貢献が期待されているので、「ビルマのロゼッタ・ストーン」と呼ばれたこともあります。

 僕がビルマ語に興味を持ったのは、独特な文字の印象が強かったからです。タイ文字やクメール文字などと同じインド系文字の流れを汲んでいますが、全体的に丸みを帯びた文字には、シンハラ文字やタミル文字に通ずる可愛らしさがあります。これを読んだり、書いたりできたらどんなに素晴らしいだろう、という極めて単純な理由がきっかけで、数年前に『《CDエクスプレス》ビルマ語』『ミャンマー文字レッスン』を同時に購入しました。
 《CDエクスプレス》を含めて、《エクスプレス》シリーズは「気軽に学ぼう世界の言葉」 をキャッチフレーズに、文法事項の説明などは必要最低限に抑えて、例文などには基本的に10課まではカタカナによるルビが振られているのが特徴ですが、
『《CDエクスプレス》ビルマ語』では第3課までにしかルビが振られていません。
 
『ミャンマー文字レッスン』は、はしがきに次のようなことが書かれています。
 「この本は、文字を形態でのみ分類し、とにかく文字の読み書きができることに焦点をあてて作成しました。言語学・音声学的側面を無視した部分が多々あります。また、使用頻度の低い文字を思い切って対象からはずしました」
 我々が普段から慣れ親しんでいるラテン文字などと違い、文字の構造が独特で複雑なビルマ文字の場合は、このような方針が相応しいのかも知れません。ある程度読み書きができるようになり、さらに興味があれば、改めて言語学的・音声学的にビルマ文字を追求しても遅くはないと思います。

 最後に、この言語をビルマ語と呼ぶべきか、ミャンマー語と呼ぶべきかという問題がありますが、これは、1988年9月18日の軍事クーデターにより成立したビルマ政府が、1989年6月18日公布・施行の国家秩序確立評議会法律89-15号「文言を変更する法律」によって、国号を「ビルマ連邦」から「ミャンマー連邦」に変更すると定めたことに端を発している問題です。一般的に、この国の言語名に関しては現在でもビルマ語と呼ぶ慣習が定着しています。また、ミャンマー語という呼び名に関しては、この国の軍事政権を認める立場にあるような印象を持ちますので、個人的には使用したい名称ではありません。ただし、これはあくまで個人的な見解であり、他の人の意見や心情にまで及ぼそうとするものではないことをお断りしておきます。

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本の紹介 其の八十四『出雲弁検定教科書』

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No.115『出雲弁検定教科書』
   編者:有元光彦、友定賢治
   出版社・ワン・ライン
   価格:1,850円(本体1,762円+税)
   発行年月:2008年9月25日
   ISBN:9784948756564
   購入場所:東京・丸の内/丸善丸の内本店
   購入時期:2009年6月
   備考:宍道出雲弁保存会協力

 島根県の方言は大きく3つに分けられます。今回ご紹介する『出雲弁検定教科書』で扱われている出雲方言は県東部に分布し、県西部には石見方言が、島根半島の北方約50kmの日本海上に浮かぶ隠岐諸島では隠岐方言が、それぞれ話されています。このうち、出雲方言隠岐方言とは近い関係にあり、鳥取県西部(伯耆地方)の方言と合わせて雲伯方言と呼ばれます。石見方言は、雲伯方言とはかなり異なり、広島や山口に繋がる中国山陽色の強い方言です。

 ここでは、基本的に出雲方言を中心にお話しますが、必要があれば、隠岐方言石見方言などにも言及することにします。なお、ここで言う出雲方言とは、主に出雲市、松江市、雲南市、安来市、斐川町、東出雲町、奥出雲町を中心に話されている方言のことです。

 出雲方言と言えば松本清張の『砂の器』 が有名ですね。ここでは、あらすじなどに触れることはしませんが、簡潔に言えば、この話の中で起こる殺人事件を解く鍵がズーズー弁出雲方言東北方言)にあります。また、劇中には多くの出雲方言が出てきます。
まず、
出雲方言を語るうえで避けて通れないのは、出雲方言がいわゆるズーズー弁として知られていることでしょう。
 ズーズー弁には次の2つのパターンがあります。
 ①シ/ si /とシュ/ sju /、ジ/ zi /とジュ/ zju /、チ/ ci /とチュ/ cju /が、それぞれス、ズ、ツのように発音されて区別を失っている。つまり、/ si / / sju / , / zi / / zju / , / ci / / cju / という拍が欠如しているパターン。
 ②ス、ズ、ツがシ、ジ、チのように発音され区別を失っているが、シュ、ジュ、チュはそのまま発音される。つまり、/ su / / zu / / cu /という拍が欠如しているパターン。
 ①のパターンは、福島県北部、宮城県全域、山形県内陸部、および岩手県中南部といった太平洋側の東北地方で見られ、②のパターンは、青森県全域から秋田県、山形県、新潟県、北陸地方から日本海側を出雲地方にまで見られるパターンです。すなわち、
出雲方言ズーズー弁は②のパターンということになります。
 さらに、母音に関して、イ段音一般が、ウ段音にやや近い音色になる中舌母音 [ ï ] の存在とも関連して、「寿司」と「煤」、「口」と「靴」などの区別が困難になります。また、母音単独のイもエとの間の区別を失っていて、
東京方言のイとエの中間のように聞こえますが、出雲方言のエ段音一般が狭母音なので、母音単独拍では / i / が欠如して / e / のみとなっているものと解釈できます。このため、「スズメ」と「しじみ」の区別も難しくなるので、文脈を無視した場合には、朝食に出てくるものが「しじみの味噌汁」なのか「スズメの味噌汁」なのか分からなくなってしまうなどということも 、絶対に無いとは言い切れません 
 
出雲方言最大の特徴とも言えるズーズー弁ですが、同じ島根県内の方言である石見方言はおろか、周辺の中国方言ズーズー弁は見られません。関東以西では、この出雲方言(を含めた雲伯方言)だけがズーズー弁の地域として孤立しています(例外:石川県能登方言)。ズーズー弁と言えば東北方言が有名ですが、東北から遠く離れたこの地域だけがなぜズーズー弁なのかということに関して、気候説農耕民族説民族移動説などいくつかの説が出されています。中でも比較的有力だと思われるのは、日本海交易説です。江戸時代においては、船による沿岸都市どうしの交易、交流が盛んでした。西廻り、東廻りといった航路があったようですが、西廻り航路は、酒田(山形)・輪島(石川)・敦賀(福井)・温泉津(島根)・下関(山口)・大阪などに立ち寄って交易を行っていました。ズーズー弁が、日本海側の東北地方を中心として、出雲地方のほか、能登半島などの北陸地方にも見られるのは、このことに関連して興味深い点です。また、ズーズー弁が古い日本語音の特徴を保持していると指摘する人もおり、確かにズーズー弁が残っている地域は本州の北の果ての東北地方や、能登半島といった古いことばを溜め込む袋小路のような場所に多い、と言えなくもありません。この辺りのこととも関連していますが、出雲方言スーズー弁との関連について、なかなか面白い仮説を立てているHPを見つけたのでご紹介しておきますコチラ

  また、母音の問題に関しては、歴史的仮名遣いのいわゆる開合の別出雲方言には残っています。中世の日本語中央方言京都のことば)には現在のオにあたる母音が2種類あったということが、室町時代から残る文献などにより明らかになっていますが、その区別とは、すなわち [ ɔ ](開かれたオ)と [ o ](閉じたオ)だと思われます。16世紀後半から17世紀前半にかけて来日したキリスト教宣教師たちが、布教活動の便のために書き残したいわゆるキリシタン資料群(『日本大文典』『日葡辞書』など)には、【ǒ】 や【 ô 】といった記号つきの文字が用いられていることから、2種類のオが存在したものと考えられているわけです。【ǒ】(=[ ɔ ])は開音、【 ô 】(=[ o ])は合音と呼ばれ、この区別が開合の別と言われるものです。
 「塔」(タフ)などに見られる -au 系統の開音と、「十」(トヲ)などに見られる -oo, -ou 系統の合音の区別は、開合の別を残す地域によって、新潟県中部などで / ɔɔ /[ ɔ: ] と / oo /[ o: ] 、九州で / oo / と / uu / などと異なりますが、出雲地方では / aa / と / oo / となります。
 例えば、「湯治」は歴史的仮名遣いにおいて「たうぢ[ tɔ:ʤi ]」、「冬至」は「とうじ[ to:ʤi ]」と書かれ、現代共通語ではどちらも「とうじ[ to:ʤi ]」と区別が失われていますが、
出雲方言においては / ɔɔ / が / aa / に、/ oo / が / oo / になるというルールに則って、「湯治」は「たーじ」、「冬至」は「とーじ」と区別して発音されます。また、歴史的仮名遣いでは「コウモリ(蝙蝠)」は「かうもり」、「箒(ほうき)」は「はうき」となりますが、これらも出雲方言ではそれぞれ、「かーもり[ ka:mori ]」、「はーきぃ[ ha:kï ]」となります。
 その他の音声面で特徴的な点は、ひとつに合拗音が存在することです。歴史的仮名遣いにおいて「くゎ」「ぐゎ」と書かれるものは、
現代共通語においてはそれぞれ「か」「が」と直音化されていますが、出雲方言ではこれらを区別します。つまり、「火事」は「くゎじ[ kwaʤi ]」、「家事」は「かじ[ kaʤi ]」と発音してそれぞれを区別するのです。
 ハ、へ、ホ等のハ行子音が歴史的に [ p ]>[ ɸ ]>[ h ] という変遷を経験してきたことは有名で、
沖縄のことば琉球方言沖縄語)には古い [ p ] や [ ɸ ] が存在しますが、本土でも出雲方言の他に、北陸や東北など、ズーズー弁使用地域には、この唇音[ ɸ ] が見られます。
 また、
出雲方言にはラ行の代償延長と呼ばれる現象も見られます。これは、ラ行音の韻律的な長さ(1拍)が消失することで、拍(モーラ)の崩壊が起こらないようにするために、ラ行音の直前の母音を長母音化することで拍を一定に保つという働きを担います。例えば、「くるま(車)」は仮名3文字、つまり3拍の長さを持っていますが、これは出雲方言では「る」が消えて「くーま(車)」となります。他にいくつか挙げれば、「だるま(達磨)」は「だーま」、「みそしる(味噌汁)」は「みそしぃー」、「いま(今)から」は「いまかー」、やや形が変わりますが「としより(年寄り)」は「とっしょー」となります。

 アクセントは、他の中国方言と同様に東京式アクセントに近いものです。

 出雲方言には独特な言い回しも数多く存在します。夕方に用いられる挨拶に「ばんじまして」というものがありますが、意外にも日本語には夕方専用の挨拶というのは多くありません。同じくズーズー弁使用地域である東北や北海道には、「おばんでした」といったような夕方から夜にかけて用いられる挨拶がありますが、この挨拶といい、中舌母音の存在、ハ行子音の歴史的変遷など、ズーズー弁使用地域の方言には、地理的距離を越えて多くの共通点が見出されとても興味深いです。
 また、平成20年度後期のNHK朝の連続ドラマ「だんだん」で有名になった「ありがとう」を意味する「だんだん」も有名です。これはもともと江戸時代の京都の遊里で使われていた挨拶言葉「おおきに、だんだん、ありがとう」の「おおきに」と「ありがとう」が省略されて、「だんだん」だけで感謝の意を表すようになったと言われています。ただし、この「だんだん」は、
出雲方言特有のことばというわけではなく、中国地方の日本海側をはじめ、四国の愛媛県や九州などでも使われ、割合に使用域の広いことばです。
 その他に、西日本では「今日はいい天気だ」と言う場合に、大阪などの「今日はええ天気」か、広島などの「今日はええ天気じゃ」のような言い方が一般的ですが、出雲では「今日はええ天気」のように「~だ」を使用する点は、この地域の方言にあって特異な点だと言えます。「買った」のような音便の問題でも、西日本では「こーた」が一般的なのに対して、
出雲方言では「かった」というなど東日本方言に近い特徴を見せます。語法の面では、敬語表現、特に尊敬の助動詞の豊富さは注目に値します。否定の表現にも他の地方では見られない独特な言い回しがあるなど、出雲方言は非常にユニークな方言だと言うことができます。

 『出雲弁検定教科書』という書名ですが、どこかの公的機関などが「出雲弁検定」というものを行っているわけではありません。ここで言われている「出雲弁検定」とは、この本の最後に、内容の理解度を試すための練習問題が付いており、それを「出雲弁検定(試験)」と呼んでいるものです。この本の最大の特徴は、序文にも書かれていますが、編者である友定賢治氏をはじめとする5名の言語学者が、長きにわたる現地調査によって完成させた出雲方言の文法、文体の解説書であること、もうひとつは出雲方言の後継者を作るべく、若い人たちが興味を持てるよう、難解な専門用語を使用せずに書かれているといった点です。また、『出雲弁検定教科書』にはCDが付いていて、実際に出雲方言の音声を耳にすることができるのは最大の魅力です。ちなみに、画像では表紙が白っぽく写っていますが、実際は、ほぼグレーです。

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ちょっと気になるこの言語 其のニ「オセット語」

オセット語

 オセット語は、印欧語族イラン語派東イラン語北グループに属し、パシュトー語とはきわめて近い関係にあり、カフカース地方で話されている唯一のイラン語です。
 分布域は、ロシア連邦を構成する北オセチア・アラニヤ共和国、および、国境を隔ててその南に位置するグルジア共和国の南オセチア自治州を中心とした地域で、約60万人程度のイラン系後裔民族オセット人によって話されています。グルジア国内には
オセット語の言語島がいくつか存在し、また、トルコ共和国のシヴァス周辺には、1860年代に強制移住させられてこの地に住み着いたオセット人が若干存在します。

 オセットという名称は、オセット人の古い自称 Ās に対応するグルジア語Ovs に、モンゴル語の複数接辞 -t がついた形に由来するとされ、Ovs-et-i Ovs の土地」というグルジア語が、ロシア語に取り入れられて広まったものとされています。
 オセット人とモンゴルとの関係については、オセット人居住域がモンゴル帝国のキプチャクハーン国領であったこと、さらに、オセット人は阿速あるいは阿蘇と呼ばれてモンゴル軍の一部を構成していたことなどにも遡ります。
 なお、彼らによる自称は、
西方言ディゴルあるいはディゴロンDigor / Digoron)、東方言ではイロンIron)です。

 オセット語には、2つの方言が認められています。すなわち、西方言Digor)と東方言Iron)で、西方言は、北オセチア・アラニヤ共和国の西北部、東方言は、それ以外の地域で使用されています。
 
西方言東方言に比べてより保守的な性格を保持しています。
 ①西方言では、語中の i u の区別が保持されているが、東方言ではこの区別を失って ɨ に融合している。
 ②
西方言では、東方言で失われた冠詞 i を保持している。

 言語的特徴としては、周辺のカフカース諸言語の影響を受けて、イラン語の中では唯一、喉頭化音(無声閉鎖音に起こる)を有している反面、地理的条件ゆえに、語彙の面において他のイラン語にはない古い語彙を保持しているという保守的な面も見られます。
 
中世イラン語東方言コータン語ソグド語コレズム語)との密接な関係が指摘され、これらの言語の解明に大きな貢献を果たした言語としても知られています。

 オセット語の表記は、ラテン文字による正書法が定められた時期もありましたが、北オセチアでは1938年からキリル文字による表記に改められました。南オセチアでも同年にグルジア文字による表記が採用されましたが、1954年以降は北と同じくキリル文字による表記に改められています。

 オセット語の文法は、名詞に2つの数(単、複)と9つの格(主・属・与・向・奪・内・接・等・共)による区別があり、性による区別はありません。活用は、屈折的というよりは膠着的な性格を見せます。オセット語の名詞活用は群活用group inflexion)と呼ばれるもので、これは同格に立つ名詞群や形容詞によって修飾された名詞は、最後に立つ名詞のみが活用し、それ以外の先行名詞や形容詞は活用せず常に主格の形を取ります。したがって、基本的に形容詞が変化することはありません。

 動詞体系には現在語幹と過去語幹の区別があり、さらに、過去語幹から形成される諸形式においては、他動詞と自動詞で活用を異にします。しかし、
パシュトー語など他のイラン諸語の多くに見られる、他動詞の過去形が能格構文となる過去受動分詞構文passive construction)は、オセット語では認められず、他動詞の過去形は主語の数と一致します。
 また、生産的な動詞前接辞の多用も特徴的で、これは動詞の意味に様々なニュアンスを与えるほか、アスペクトもこれによって示されます。
 前接的な要素となる代名詞は、主語の接尾語のような形となって、必ず文頭から2番目の位置に置かれます。これは、古い
印欧語に遡る「ヴァッケルナーゲルWackernagelの法則」を保持しているものと説明されています。
 
 
オセット語の基本的な語順は、SOVが一般的ですが、例外も多数あります。修飾語は非修飾語に先行します。
 目的語は、主格をとる場合と属格をとる場合とがあり、目的語が無生物か不定のものでは主格をとり、限定されたものや、生物、固有名詞、代名詞、および無生物でも特に強い限定を受けているものは属格をとります。
 
日本語チュルク諸語のように、後置詞を使用することも特徴的です。

 オセット語は、イラン語派という印欧語族言語の古い特徴を残しているのみならず、地理的な理由からカフカース諸言語の特徴も併せ持っているユニークな言語です。残念ながら日本語で読める入門書や辞書などは発行されていません。

 オセット語に関する参考資料
 [文献資料]
 
言語学大辞典[世界言語編] 第1巻 オセット語(吉田豊、1991年、三省堂)
 
 [文法]
 Abaev, V. I. (1964), A grammatical sketch of Ossetic (tr. S. P. Hill, Indian University Press, Bloomington)

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本の紹介 其の八十三『ナヴァホ語入門』

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No.114『ナヴァホ語入門』
   著者:戸部実之 出版社:泰流社
   価格:5,974円(本体5,800円+税)
   発行年月:1988年11月10日
   ISBN:4884706641
   購入場所:東京・神保町/神田古本まつり
   購入時期:1994年か95年?
   備考:絶版

 今回の本、『ナヴァホ語入門』ではナヴァホ語となっていますが、三省堂刊『言語学大辞典』の記述に従い、ここではナバホ語という言語名でお話します。
 
ナバホ語は、北米インディアン諸語ナ・デネ大語族Na-Dene)の中のアサバスカ語族Athabaskan)、アパッチ諸語に属しています。ナバホ語アパッチ語は非常に近い関係にあり、北米インディアン諸語の言語には話者数が減ったり死語になるものも多い中で、この両言語は話し手の数が増えている数少ない例です。特にナバホ語は、北米インディアン諸語の中では最も話者の多い言語のひとつで、その数はアメリカ合衆国のアリゾナ、ニューメキシコ、ユタの3州にまたがる地域において約14万人以上にのぼると言われています。

 ナバホ語の音声的特徴としては、母音が i , e , a , o の4つあり、それぞれに鼻母音と非鼻母音、短母音と長母音の対立があるので、ナバホ語の母音は16個あると解釈することも可能です。鼻母音は į , ę , ą , Ǫ 、長母音は ii , ee , aa , oo のように表記するのが慣習となっています。
 また、
ナバホ語には声調が存在し、短母音には、高、低の2種、長母音には、高、低の2種に加えてさらに上昇調と下降調の2種が加わります。それぞれ í , íí (高)、i , ii (低)、(上昇)、íi (下降)のように表されます。
 子音は、全体的に b
ナバホ語では、無声無気両唇閉鎖音をこのように表記する慣習がある), m , w 以外、唇音の少ないのが特徴ですが、これはナバホ語に限らず、アサバスカ語族全体に共通する特徴でもあります。
 閉鎖音は、声門閉鎖音 ʔ [ ʔ ]、無声無気音 b [ p ], d [ t ], g [ k ], [ kʷ ]、無声有気音 t [ tʰ ], k [ kʰ ], [ kʷʰ ]、無声喉頭化音(放出音)t' [ t' ], k' [ k' ] があります。
 摩擦音には、有声の z [ z ], ž [ ʒ ], l [ l ], ɣ [ ɣ ], ɣʷ [ ɣʷ ](w)、無声の s [ s ], š [ ʃ ], ł [ ł ], x [ x ], [ xʷ ], h [ h ], [ hʷ ] があります。
 破擦音は、閉鎖音と同じく3種類あり、無声無気音の j [ ts ],
ǰ [ ʧ], L [ tł ]、無声有気音の c [ tsʰ ], č [ ʧʰ  ], Ł [ tłʰ ]、放出音の c' [ ts' ], č' [ ʧ' ], Ł' [ tł' ] があります。
 この他に、m, n の鼻音、 y の半母音、喉頭化音の m', n' , y' が存在します。

 ナバホ語にはもともと文字は存在しませんが、近年ではその表記に様々な方式が試みられています。その中でも今日、特に広く採用されているものにはサピアとホイヤー(SH)による方式と、ヤングとモーガン(YM)による方式の2つがあります。音声的特徴のところで [  ] 内のIPAの直前に示した表記はSH方式によるものです。

 文法面を見ると、ナバホ語の独立形式は、活用を基準として次の3種類に分けることができます。

 ①名詞活用を有する名詞および後置詞
 ●名詞として活用するものは、主に所属を表す人称接頭辞です。
 ●名詞語幹には5次の種類があります。 
  1)語根からなるもの。
  2)語基(接頭辞+語根)からなるもの
  3)名詞に転化した動詞
  4)複合名詞(1~3の語幹が2つ以上結合したもの)
  5)外来語(主に
スペイン語からの借用)
 ●後置詞は、人称接頭辞と後置詞語基とからなり、人称接頭辞は、名詞の所属を表す接頭辞にその形が似ています。

 ②動詞活用を有する動詞
 ●動詞には少なくとも3つの接頭辞がつきます。
ナバホ語の動詞は多くの場合、単音節の構成要素からなり、この構成要素の順序は決まっています。その中心として機能的な中核を担うのは、語根から派生した語幹であり、語幹の持つ意味はきわめて抽象的なものとなっています。この語幹に、4種類ある語幹分類接頭辞( ø-, ł-, d-, l- )が組み合わされ、さらに上位の語幹が形成されます。この上位語幹は副詞的接頭辞と結合して語基を形成し、ここにはじめて具体的な意味が加えられます。語基は、人称接頭辞などの活用接頭辞と結合することで、動詞という独立形式を形成するに至ります。
 ●動詞には、自動詞、他動詞、受動詞の3種類があり、さらに、受動詞には、単純受動詞、行為者受動詞、中間受動詞の区別があります。
 ●また、動詞は、動作を表し6種類の活用を有する動作動詞と、状態を表し1種類の活用を有する中性動詞があります。
 ●法には、未完了、完了、慣習、反復、進行、未来、願望の7種類が、アスペクトには、瞬時、継続、同時、分配、努力、復帰、過渡、始動、循環、多生(あちこちで?)の10種類があります。
 
 ③活用のない不変化詞
 ● 不変化詞には、代名詞、数詞、形容詞、副詞などがあります。

 ナバホ語の文法で特に目立つのは、名詞に比べて動詞が非常に複雑であることです。このことはナバホ語に限らず、エスキモー・アリュート語族を含めた北米インディアン諸語に共通する特徴です。1つの語(=動詞)が多くの概念、機能を担い得るという点において、膠着的に接合する統合度のきわめて高い言語だと言えます。語順ということを言えば、基本的にはSOV型の言語です。

 久しぶりに取り上げる戸部実之氏の著書です。内容は、例の如くという以外に言葉がみつかりませんので、本の構成だけざっとご紹介するに留めます。
 書名は
『ナヴァホ語入門』となっていますが、中扉には副題付きで『ナヴァホ語入門―アメリカ・インディアンの言語―』と書かれています。全103ページ。5ページから74ページはナバホ語の「基本文型」についての解説。75ページから101ページは「関連諸言語との比較」となり、ネズパース語エスキモー語アイヌ語ドラヴィダ諸語ケチュア語などとの比較を試みています。102ページに参考資料を掲載しています。
 
戸部氏による泰流社の入門書シリーズと言えば単なる語彙集のイメージが強いのですが、この本には珍しく語彙集がありません。『ナヴァホ語入門』は、戸部氏が泰流社から語学書を出し始めた最初期の頃のものですが、この頃は語彙集というよりも、日本語のルーツ探しに関連した他言語との比較対照を試みた内容のものが多かったように思います。泰流社が倒産の憂き目に遭う後期に向けて、戸部氏の語学本も入門書シリーズから、『○○語辞典』あるいは『○○語小辞典』と銘打った語彙集に姿を変え、次々と乱発的に出版されていったのは語学書マニアの方々の間では有名な話ですね。  

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本の紹介 其の八十二『現代オック語文法』

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No.113『現代オック語文法』
   著者:多田和子 出版社:大学書林
   価格:5,871円(本体5,700円+税)
   発行年月:1988年9月10日
   ISBN:9784475015837
   購入場所:東京・神保町/三省堂書店神田本店
   購入時期:不明

 オック語とは、南フランスで話されている印欧語族イタリック語派に属する言語で、一般的にプロヴァンス語と呼ばれている言語の中の一方言です。
 
プロヴァンス語は、フランス語フランコ・プロヴァンス語(仏南東部、スイス西部、伊北西部)、カタルーニャ語スペイン語ポルトガル語イタリア語サルデーニャルーマニア語レト・ロマンス語ダルマチア語と並ぶロマンス諸語の1つで、このうち、フランス語フランコ・プロヴァンス語とともにロマンス諸語の中のガロ・ロマンス諸を構成します。
 
プロヴァンス語は、同じフランス国内にある北部のフランス語とはかなり近い関係にありますが、ロマンス諸語の中でもきわめて改新的な性格を示すフランス語に対し、プロヴァンス語はきわめて保守的な性格を有しています。鼻母音の発達などの音声的変化や形態的改新などが著しいフランス語に対して、プロヴァンス語ではそのような面はほとんど認められません。政治的な理由によりフランス語の一方言として扱われることが多いプロヴァンス語ですが、類型論的に言うとむしろイベロ・ロマンス諸語に近く、中でもカタルーニャ語とはかなり近い関係にあります。
 
プロヴァンス語フランス語も古代ガリア地方に居住していたケルト系のゴール語を基層として、その上にラテン語が導入されて発展した言語が基となっています。また歴史的には、ローマ帝国がガリア地方に対して行ったローマ化政策が、現在の南フランス地方においては北フランス地方以上に徹底して行われ、さらには、北フランスに重大な変革をもたらしたゲルマン人による植民地化が、南フランスではほとんど影響を与えなかったという背景があります。この2点がプロヴァンス語フランス語が同じガロ・ロマンス諸語に属しながら互いに著しい対照をなすに至った主な要因と考えられています。
プロヴァンスという名称の由来は、13世紀以来、中世の人々がアルプス山脈からピレネー山脈に連なる現在の南仏地域をローマ属州(Provincia romana)と呼んでいたことから出たものです。
 また
オック語オックとは、元来この言語が話されている国を意味するもので、ラテン語オクシタニアOccitania)と呼ばれた1つの地方名でした。これを言語の名として最初に『神曲』で有名なダンテが用い、その著 《De Vulgari Eloquio》 の中で北のフランス語langue d' Oïlイタリア語 langue de Siオック語langue d' Òc と定義したことに由来します。オック語Òc ラテン語の中性指示代名詞 Hoc(それ) から来ており、Òc OïlSi も肯定の副詞「はい」を意味する俗語です。
 また、プロヴァンスオックという2語は、どちらも南フランスの地方名とその方言名(ProvenceProvençal LanguedocLanguedocien)をも指す名称であるため、近年では Occitania の形容詞 occitanus に由来する
オクシタン語occitan [南仏語])を使用することが多くなっています。  

  プロヴァンス語の話者は例外なくフランス語とのニ言語併用者であり、話者数を把握することは極めて困難です。プロヴァンス語の話者とされる人たちの間にも、プロヴァンス語の理解度にはかなりの差が見られますが、様々な条件を加味して推定すると約1,400万人程度の話者を有するものと考えられます。プロヴァンス語は、フランス全土の約3分の1に当たる地域で、フランス総人口の約4分の1程度の人々によって使用されていると思われます。

 プロヴァンス語には大別して次の3つの方言があり、さらにいくつかに細分化されます。
 
『現代オック語文法』では、トゥールーズを中心とした地域で話されているオック語ラングドシャン/ラングドック方言)を扱っているので、ここで説明する各方言の特徴は基本的にラングドシャンラングドック方言)と比較した場合に際立つものに留めます。
 
 1)北部方言
   a
リモージュ方言limousin
   b
オーヴェルニュ方言auvergnat
   c
ドーフィーヌ方言dauphinois

 北部方言の特徴は、
 Ⅰ) 
ラテン語caga がそれぞれ口蓋化し、cha [ ša ] 、ja [ ža ] と発音されることが、この方言の最大の特徴です。 
   cabrachabraCANTATchantaGALINAjalina
 Ⅱ) 語末子音は無音となる。
 Ⅲ) l は母音化して u となる。
 Ⅳ) 語頭の母音が脱落する
   una man'na man

 2)南部方言
   a
ラングドック方言languedocien
   b
プロヴァンス方言provençal

 南部方言の特徴は、
 Ⅰ) 
ラングドック方言は、プロヴァンス語の中でもきわめて保守的とされ、中世の古典プロヴァンス語に最も近い姿を残しているとされています。使用されている領域の大きさからも、プロヴァンス語中、最も重要な方言と言えます。
 Ⅱ) 語末子音は発音されず、特に複数の -s は脱落する傾向にある。
 Ⅲ) l は、北部方言と同様に、しばしば母音 u となる。
 Ⅳ) 定冠詞複数形は、単数形とはかなり異なる形をとる。
   lo , lalei , li

 3)ガスコーニュ方言gascon / ガスコン語

 ガスコーニュ方言プロヴァンス語の中でもきわめて特異な性格を持ち、それゆえ、特別な地位を占めている方言です。その主な特徴としては、
 Ⅰ) 
ラテン語f h になる。
   filhhilh , FARĪNAharia , FLŌREhlor
 Ⅱ) 母音間の -n- は脱落する。
   LŪNA lua , SEMINĀREsemiar
 Ⅲ) 語頭に立つ r の直前に、母音 a が添加される。
   ren arren , RACĪMUarrasim
 Ⅳ) 
ラテン語の二重子音 ll は、語末で -th 、または -t となり、母音間では -r となる。( )内はラングドシャンの例。   
   CASTELLUMcastèth , castèt castèl
   BELLAM bèrabèla
   GALLINAM garinagalina ) 
 Ⅴ) 子音群 -mb- , -nd- は、それぞれ m n に縮約される。
   CUMBA coma , LANDAlana
 Ⅵ) 他の方言同様、語末の l は母音化する。
   mal mau
 Ⅶ) 統辞面においては、que , e , be などの提示詞(énoncatif)と呼ばれる小辞が用いられることによって、肯定、疑問、感嘆などの言表を明確に区別する。特に、主節は que によって導入される。
   Tu que cantas. (君は歌う)
   E cantas? (君は歌うか)
   Be cantas plan! (君は何と上手に歌うのだろう)  
 Ⅷ) 語彙の面では、ラテン語にもゴール語にも属さないと推定されるものが見出される。これは紀元前1世紀ごろに現在の南西フランスで話されていたとされる
アキタニア語に由来するものと考えられている。例としては、
   jordon (木いちご)、harri (ヒキガエル)、sarri (かもしか)
のような、植物や動物、牧畜関係の語に関連するものが多い。
 また、
アキタニア語は近隣のバスク語との関連性を指摘されたこともあり、ガスコーニュ方言に見られる特徴のうちⅢ)などは、他のプロヴァンス語はおろか、ロマンス諸語の中にも見出されず、バスク語と共通する特徴でもあって興味深い点です。  

 
ラングドシャンには7つの母音([ ɑ ],[ e ],[ ɛ ],[ i ],[ o ],[ u ],[ y ])が存在し、語末にのみ現れる無強勢の / ə / を8つめの母音に含める場合もあります。また、ラングドシャンの母音には、フランス語のような鼻母音は存在しないことも大きな特徴です。
 子音は、おおむね
フランス語の子音の特徴に似ていますが、いくつかの異なる点としては、
 1) 語末の d は無声化して、/ t / と発音される。
 2) g は、e , è , i の前では、個人差や地域差はあるものの、[ ʒ ],[ ʤ ],[ ʦ ] と発音される。また、子音+g で終わる語末では、-g は/ k / と無音化し、母音+g で終わる語末では、[ ʧ ] と発音される。
 3) j は一般的に [ ʤ ] と発音される。
 4) 語末の m はしばしば [ n ] と発音される。
 5) 語末の n は発音されないことが多い。
 6) r
スペイン語イタリア語のように巻舌で発音される。
 7) b および v は、
スペイン語と同じように[ b ] と発音される。 
 8) tz は [ ts ] として発音される。
などの点が挙げられます。

 アクセントは、一般的に最後の音節か、最後から2番目の音節にあります。ただし、これらの例外においては鋭アクセント記号( ´ )によって示されます。

 形態・統辞上の特徴では、
フランス語とは異なり、南部ロマンス諸語に近い性格を示すものがいくつかあります。
 1) 動詞の活用形がよく保存されており、主語人称代名詞を用いることなく人称と数を表現できる。
フランス語の場合では、2人称において単複の区別はないが、ラングドシャンにおいてはこれを区別する。
 2) 動詞の活用形の中で、直説法半過去に2つの型(-ia -ava)がある。
 3) 禁止を示すために接続法現在が用いられる(否定命令)。
 4) 定冠詞が、関係節や限定補語の前で指示代名詞として用いられる。3)、4)の特徴はともに、
スペイン語ポルトガル語カタルーニャ語と共通するものである。

 ラングドシャンを含めたプロヴァンス語は、「表現が明確、かつ簡潔で、その語彙の豊富さはフランス語の5倍である」というのは、この言語を使用する人たちの自慢のようですが、それゆえに表現力に富み、フランス語からオック語には訳し易いが、その逆はしばしば困難なことがあるとも言われます。また、フランス語に比べて造語力の点でも上回っているとされます。
 中世においてきわめて未開とされていたヨーロッパの中にあって、この地域はローマ帝国の滅亡後、文化が花開くことになります。
プロヴァンス語は、ロマンス諸語の中でもすでに完全に洗練された最初の言語であったと言われています。プロヴァンス語が表現力や造語力に優れていると言われることを証明するかのように、トゥルバドール(troubadours)と言われる吟遊詩人たちはこの言語を用いて抒情詩を作り歌い上げました。これは、ヨーロッパにおける抒情詩の祖形になったと言われています。

 
『現代オック語文法』の構成自体は、大学書林から出版されている他の『文法入門』シリーズと大差はなく、極めて生真面目なつくりになっています。
 全280ページで、冒頭において
オック語ラングドシャン)についての説明があります。11ページから185ページまでが文法説明に割り当てられ、書名のとおりこの本の根幹を成す部分となっています。189ページから244ページまでは「第2部 テキスト研究」となっており、ラングドシャンによる読み物が掲載されています。最後の部分には動詞の活用表があります。
 残念ながら、CDやカセットなどのオーディオ教材はありません。

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ちょっと気になるこの言語 其の一「ヤーガン語」

 この Cogito Ergo Sum というブログ、途中3年間も中断していた時期がありましたが今回の記事で100回目を数えることになりました。
 このブログでは主に言語に関する本とそれに関わる言語の紹介をしていますが、今回から新たに「ちょっと気になるこの言語」というコーナー(?)を設けて、僕自身その言語の本は持っていないけれど、ちょっと気になるなあという言語、特に国内では資料が少ないような少数言語、マイナー言語を中心に取り上げてみたいと思います。第1回目の今回は
ヤーガン語です。

ヤーガン語

 人類が居住している地域としては最南端であり、南米でも最も南の端に位置する地域、南米大陸本土からマゼラン海峡によって隔てられたフエゴ島の南岸域と、そのフエゴ島とはさらにビーグル水道によって隔てられたホーン岬にまで連なるナバリノ島などの島嶼域に住んでいたヤーガン族の言語です。

 このヤーガン(英 Yahgan )という呼称は、この言語の分布中心域であるマレー海峡の辺りを原住民が Yahga([ yáka ]?) と呼んでいたことにちなんで、イギリス人宣教師ブリッジズ ( Thomas Bridges, 1842~1898 )が使い始めたものとされています。
 ヤーガン族による自称は、「男」を意味する Yamana([ yámana ]) ですが、近年では女性がこの名称で呼ばれることを嫌うために、地名に由来するヤーガンという名称が市民権を獲得しつつあるようです。またヤーガン族が自ら用いる呼称として inčikut という語を用いることがありますが、これは彼らが最初に接触した西欧人であるイギリス人の言語、
英語Indianヤーガン語で「ことば、話す」を表す要素 kuta とが合わさったものです。また、 yaman hała あるいは intian-hałahała「声」)と言うこともあります。 

 19世紀中頃には3千万人程度の話者が存在していたとされていますが、現在この言語を流暢に話せる話者はおらず、1975年頃までには既に亡くなっているとされています。
 現在、ヤーガン族の血を受け継ぐ人たちはいますが、純血のヤーガン族はナバリノ島プエルト・ウィリアムズに住む老齢のクリスティナ・カルデロンという女性を1人残すのみとなっており、彼女がこの世を去った時点で
ヤーガン語も消滅する運命にあります。

 かつてヤーガン語が使用されていた地域は現在スペイン語の世界です。ヤーガン族が初めて接した西欧人はイギリス人でしたが、現在この地域で英語はほとんど通用しません。しかし、ヤーガン語に取り入れられた英語由来の借用語はかなりの数にのぼり、歴史的により最近のスペイン語からの借用語がそれに比して少ないのは興味深い点です。英語からの借用語には次のようなものがあります。

 saulata < salt 「塩」、hata < hat 「帽子」、sipa < sheep 「羊」、tiful < devil 「悪魔」、winta < window 「窓」、spanis < Spanish 「スペインの」

 では、ここで問題です。次の3つはもともとどんな英語に由来しているでしょうか? 
 ①mani ②kauntana ③tarti
 ヒント:①は名詞、②は動詞、③は形容詞です。

  現在知られているヤーガン族に関する最初の記録は、オランダの提督レルミート(Jacques L'Hermite)が1624年にナサウ湾で接触した原住民について残した簡単な記述だとされています。その後、ときおりこの地域を訪れる探検家らによって、ヤーガン族に関するごく断片的な民俗学的、言語学的な情報が集積されていましたが、ある程度のまとまった情報として得られるようになるのは、レルミートから遅れること230年以上経った1858年以降のことです。ヤーガン語の習得を目的として、フォークランド諸島のケペル島に建てられたイギリス国教会の伝道所を、ヤーガン族の一団が訪れたことが始まりです。この伝道所を開いたデスパード(George Packenham Despard)は、知られている限り、初めてヤーガン語を学んだ西欧人と言われています。後に、デスパードがヤーガン族を紹介して書いた記事を雑誌に掲載しますが、部分的とは言え、ヤーガン語の文法に触れるところがあり、ヤーガン語文法について発表された最初の考察と言えます。
 デスパード後は、ブリッジズが彼の教化計画を継承し、フエゴ島において36年間ヤーガン族とともに生活し、1893年、30ページ弱の文法概要を発表、3万2千語を越す語彙を採録した
『ヤーガン語・英語辞典』もブリッジズの死後に完成させています。これには『ヤーガン語・英語辞典』の草稿をめぐって多少の経緯があったものの、ヤーガン語の音声分析の発表もあるグシンデ(Martin Gusinde)とヘステルマン(Ferdinand Hestermann)との共編によって1933年にようやく完成の日の目を見ました。現在、その草稿は大英博物館に所蔵されています。
 デスパード以来、
ヤーガン語の表記には音声字母フォノタイプ(Phonotype、エリス式)が改良を加えられて用いられています。これは、イギリスの綴字改良家ピットマン(Isaac Pitman)と音声学者エリス(Alexander J.Ellis)が1846年に考案し、その方法は部分的に後の国際音声字母(IPA)にも繋がるものです。ブリッジズもこのフォノタイプを採用しています。

 ヤーガン語の母音は、a , i , u の3つです。
 子音には、閉鎖音 p , t , č , k 、摩擦音 f , s , ʐ , ʂ , x 、側音 l , ł 、接近音 w , y , m , n があります。閉鎖音はしばしば有気的、側音 ł は多少そり舌音的に発音される傾向にあります。軟口蓋音 x は、語頭では [ h ] ですが、しばしば脱落することがあります。
 また、単母音と重母音、単子音と重子音が音韻的対立を示します。
 ina 「冬」~iina 「(糸で)魚を釣る」~inna 「西に」

 アクセントは、語の末尾から2音節目にやや強さと高さをともないますが、韻律現象についてはまだ多くの疑問が残っています。

 ヤーガン語の文法は、類型的には、統合度の高い膠着語的性質を示します。語構成には、接辞法、語幹合成、(微弱ながら)象徴法が用いられます。接辞は、接尾辞と接頭辞が、屈折、派生の両面に用いられます。こうした手段による盛んな語の派生が、ヤーガン語における統合度を高めています。
 
ヤーガン語において顕著なのは数の概念でしょう。数詞と思われる語は3つしか存在しません。
 「1」 ikuali 、「2」 kampai ( pi ) 、「3」 mattan
 それを越えたいわゆる複数は、
ヤーガン語においては、個別的に捉えうる一個体の無数のように考えられ、あたかも複数として認識されていないかのようでもあります。このことは、ある種の動詞の語幹合成にも反映されています。このことから、ヤーガン語における数の概念は「単数」と「複数(ヤーガン語には双数もある)」による区別と言うよりも、「有数」と「無数」を区別すると言ったほうがより適切かも知れません。

 語順は、基本的にSVOですが、しばしばSOVになることもあります。また、修飾語は被修飾語に先行します。
 
 語彙には、きめ細かに細分化された動詞や指示詞が多く、名詞では、ヤーガン族の生活習慣を反映して、植物とその葉、貝類、およびこれらの採取方法や調理方法などに関するものが豊富です。

 ヤーガン語の系統関係に関しては、未だに明確な結論は出されておらず、現在のところ系統不明の孤立言語として扱われています。
 
ヤーガン語が分布する南米大陸の最南端は、シェルクナム語ハウシュ語カウェシュカル語アラカルフ語)、テウェルチェ語といった相互の系譜関係が明確でない言語がひしめきあっています。これらのうち、シェルクナム語ハウシュ語テウェルチェ語チョン語族の名称でまとめられたり(Robert Lehmann-Nitsche, 1913) 、ヤーガン語カウェシュカル語との比較が試みられるなど(Morris Swadesh, 1954)してきましたが、語彙面での相互影響についてはその可能性が指摘されたものの、これらの諸言語の系譜関係については踏み込んだ結論が出せぬまま今日に至っています。
 また、グリーンバーグ(Joseph Greenberg, 1956)は、根拠こそ示していませんが、南米において認められている3大語族のひとつである、
アンデス赤道大語族アンデス部門の第1語群の中に、アラウコ系諸言語と並べて先に挙げたフエゴ島周辺の諸言語を含める立場を取っています。しかし、この見解は現在ほぼ無視されている状況にあります。
 カナダの人類学者、ジェネス(Jenness, 1953)は、
エスキモー語ヤーガン語の類似性を指摘し、ヤーガン語を含めたフエゴ諸語を他の南米の諸言語パノ諸語タカナ諸語モセテン諸語マプチェ語アイマラ語ケチュア語)とともに、ユート・アステック語族と結び付ける仮説(M. R. Key, 1981)なども出されてはいますが、いずれの説も未だに言語学界では認められていません。

 ヤーガン族は元来、魚介類やアシカなどの獲物を求めて島々をカヌーで移動する遊漁民でした。19世紀中頃には3千人ほどいたとされるヤーガン族が、1880年代には1千人を、1910年代には100人を割り込み、その後、1953年に行われた調査ではわずか27人が残るのみとなっていました。ヤーガン族が急速に衰退していった背景には、西欧人ががもたらした疫病が大きかったようです。西欧人の入植とともにもたらされた疫病に対し免疫を持たなかったヤーガン族は急速に数を減らし、生き残ったヤーガン族も西欧人や他の民族との混血が進み、その結果として現在確認されている純血のヤーガン族は先に挙げたクリスティナ・カルデロンさんただ一人となっています。

 カルデロンさんがこの世を去った時点で、
ヤーガン語もこの地球上から姿を消してしまうということになるわけですが、言語というものの最大の目的は、それを使って誰かとコミュニケーションを図るというところにあります。ヤーガン語の場合、カルデロンさん以外にこれを聞き話す人がいないため、ヤーガン語でのコミュニケーションは成立しないということになります。こうなると、ヤーガン語という言語の存在はカルデロンさんによって命を繋ぎとめていると言えますが、コミュニケーション・ツールとしてのヤーガン語はすでに消滅していることになり、残念ながらヤーガン語は地球上から消滅したと言えるのかも知れません。
 しかし、以前テレビで見たドキュメンタリー番組で、ヤーガンの血を引く人たちの間でヤーガンの歴史、文化、言語を見直す動きがあり、細々とではありますが、
ヤーガン語の復興が図られているという話も聞きました。
 地球上には6千とも8千とも言われる言語が存在していると言われていますが、そのうちの90%が今世紀中に消滅すると予測されています。我々の話す
日本語もその90%に含まれているかもしれません。自分の話すことばを周りにいる誰もが理解してくれなくなり、そして自分がその言語の最後の保持者という立場になったとしたらどうでしょう。カルデロンさんの気持ちを思うと何とことばにしていいか分かりません。ヤーガン族およびヤーガン語の辿ってきた歴史を知るにつけ、今いちど我々の言葉に対する姿勢も再確認してみる必要があるように思われます。

ヤーガン語に関する参考資料
 [辞書]
 Bridges, Thomas (1933), Yamana-English:A Dictionary of the Speech of Tierra del Fuego (Ferdinad Hestermann and Martin Gusinde [eds.], Mödling)

 [文献資料]
言語学大辞典[世界言語編]第4巻 ヤーガン語(宮岡伯人、1991年)
Bridges, Thomas (1893), “A Few Notes on the Structure ohf Yahgan”, Journal of the Royal Anthropological Institute 23 (London)
Claris, Christos (1983), “Las lenguas de la Patagonia”, América latina en sus lenguas indígenas, coordinación, presentación y documentación por Bernard Pottier (UNESCO, Monte Avila Editores, Caracas)

英語由来のヤーガン語の意味を当てる問題の解答です。
 ①金<money ②数える<count ③汚い<dirty

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本の紹介 其の八十一『スィンディー語基礎1500語』

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No.112『スィンディー語基礎1500語』
   編者:萬宮健策 出版社:大学書林
   価格:2,987円(本体2,900円+税)
   発行年月:1996年8月30日
   ISBN:4475011159
   購入場所:東京・神保町/三省堂書店神田本店
   購入時期:2002年

 今回の本、『スィンディー語基礎1500語』という書名にあるスィンディー語という言語名は、一般的にはシンド語、あるいはシンディー語と呼ばれています。三省堂刊の『言語学大辞典』にはシンド語の名称で項目が立てられていますので、ここでもシンド語という名称でお話したいと思います。

 シンド語は、印欧語族インド・イラン語派北西部語群に属する言語です。
 
シンド語が使用されているのは、パキスタンの南西部シンド州および、インドのグジャラート州のカッチ半島を中心としたいわゆるシンド地方と呼ばれる地域です。シンド語使用域は周囲を西からバローチー語ラーンダー語ラージャスターン語グジャラーティー語などに囲まれています。
 話者数は、パキスタンで1,200万人ほど、インド側では首都デリーや西部の中心都市ムンバイ(旧ボンベイ)などにも
シンド語話者がおり、およそ300万人程度と考えられています。
 インドの公用語は
ヒンディー語英語ですが、「インド連邦憲法」が規定した22の指定言語の中にシンド語も含まれています。

 シンド地方という地域は、歴史上、インダス文明の有名な遺跡であるモヘンジョダロに始まり、インド亜大陸へ初めてイスラームが伝播した地域としても知られています。現在のシンド語の歴史は記述資料などに乏しく、西暦10世紀ごろまでしか遡れません。それ以前にこの地域で話されていた言語と現代のシンド語との間にどのような関連があるのか、または全くの別言語であるのかということは、残念ながら解明されていません。

 シンド語には大別して6つの方言があるとされています。そのうち、書き言葉を含めて共通シンド語とされているのは、シンド地方のほぼ中央に位置するヴィーチョリー方言です。

 シンド語を書き表すための文字は、かつてはランダー文字が使われていました。現在はパキスタンとインドとで状況が若干異なっています。
 パキスタンではペルシア文字に改良を加えたシンド文字(主にナスタアリーク体)が使われています。これは、
ペルシア語にはないシンド語特有の帯気音、反り舌音、入破音などを表記できるように補助記号などを加えた52文字からなっています。 
 インド側でも基本的にはパキスタンと同じシンド文字が使用されていますが、デーヴァナーガリー文字で書かれることも多く、時には
パンジャーブ語で使用されるグルムキー文字が使われることもあります。しかし、インド側でも出版物の多くはシンド文字で行われています。

 シンド語の音韻は基本的にヒンディー語に類似しますが、インド亜大陸で話されている他のインド・アーリア諸語に比べても、かなり複雑な音体系を有していると言えます。
 母音はおよそ次のようになっています。

 [ a ] , [ i ] , [ u ] , [ eː] , [ oː] , [ æː] , [ ɔː]

 上記のうち [ a ] , [ i ] , [ u ] の3母音には長短の対立があります。それ以外の4つには基本的に長短の区別はなく、原則として常に長音で発音されます。ただし、[ e ] と [ o ] に関してはしばしば短音で現れることがあります。また、上記の7つの母音にはすべてに鼻母音も存在します。
 
シンド語の発音上の特徴として、日本語と同じように原則としてすべての音節が母音で終わる開音節言語という点が挙げられます。この点はヒンディー語などとは異なる特徴です。

 子音に関して特徴的な点は、入破音と外破音の対立があること、帯気音と非帯気音の対立があること、反り舌音が存在することが挙げられます。

 シンド語の文法では、語形変化が性(男性・女性)、数(単数・複数)、格(主格・後置格・呼格)、人称によって規定されます。
 語順はSOV型です。

 シンド語の基本文法を解説した本はあまり多くなく、英語で書かれた本では次のものが比較的入手しやすいようです。

 Lekhwani, Kanhaiyalal. 1987. 《An Intensive Course in Sindhi》 Mysore: Central Institute of Indian Languages.

 日本語で書かれたものには次のものがあります。

 萬宮健策 1994. 『スィンディー語文法概説』 東京外国語大学語学研究所:語研資料16(pp. 51-136.)所収

 この『スィンディー語基礎1500語』は全140ページ。冒頭にこの語彙集に掲載されているシンド語語彙の選択にあたって参考にされた資料が挙げられ、次いで「スィンディー語の学習書・辞書」としていくつかの本や辞書が挙げられています。上記の文法書2点もこの部分に掲載されていたものです。シンド語の文字の説明、シンド語のアルファベットと進み、「スィンディー語の音体系と発音概説」で簡単なシンド語の紹介が終わります。1ページから131ページがシンド語日本語の語彙集、残りの部分は付録としてデーヴァナーガリー文字表記のシンド語アルファベット、シンド語の数詞、曜日、月名が掲載されています。

 この本は、『バローチー語基礎1500語』とともに購入しました。インド亜大陸の言語はヒンディー語ベンガル語ネパール語などを学習したことがありますが、シンド語は当然手をつけたことがありません。先にもお話したとおり、この言語に関する資料はそう多くはないので、一体どんな言語なのかということがよく分かりません。国内では現時点で言語に関する資料の最高峰と言える三省堂の『言語学大辞典』でも、話者人口1,200万から1,300万人程度と決して少なくない言語であるにもかかわらず、シンド語に関してはサラリと触れられているだけです。文法の基本体系はおよそヒンディー語パンジャーブ語などの他のインド・アーリア諸言語と変わらないのではないかと思いますが、音体系が複雑なようなので、その辺りに興味が沸いてきます。ちなみにシンド語の音声は、以前にご紹介した世界ことばのたび―地球上80言語カタログ 』の中でシンディー語の名で聞くことができます。 

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本の紹介 其の八十「現代ウイグル語」

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No.110
現代ウイグル語四週間』
   著者:竹内和夫 出版社:大学書林
   価格:7,725円(本体7,500円+税)
   発行年月:1991年2月20日
   ISBN:9784475010252
   購入場所:東京・神保町/三省堂書店神田本店
   購入時期:1993年か1994年?

No.111『現代ウィグル語辞典[ウィグル語―日本語]』
   著者:小松格 出版社:泰流社
   価格:14,000円(本体13,592円+税)
   発行年月:1993年5月18日
   ISBN:4812100305
   購入場所:東京・神保町
   購入時期:1995年?
   備考:絶版

 ウイグル語と呼ばれる言語には大きく分けて2つのものがあります。

 ひとつは、
古代ウイグル語と呼ばれるもので、9世紀から16世紀にかけて「ウイグル可汗国」や「西ウイグル王国」といった国家を歴史上に残した民族、ウイグル族の言語です。このウイグル族のうち、「西ウイグル王国」を建てた一派は、13世紀前半のモンゴル帝国の勢力に圧倒されて、モンゴルに服属するようになります。しかし、ウイグル族の文化はモンゴルに飲み込まれることはなく、むしろモンゴルの文化に影響を与えるほどで、ソグド系のウイグル文字はのちにモンゴル文字へと繋がってゆきます。
 その後、かつての「西ウイグル王国」の中心地は西方のイスラームの影響下に入り、15~16世紀になってこの地のウイグル族は仏教徒からイスラーム教徒へと改宗しました。

 もう一方のウイグル語は、現在の中華人民共和国、新疆ウイグル自治区に居住するウイグル族(ウイグル人)を中心に、カザフスタンやキルギスなどに住むウイグル族によって話されている現代ウイグル語(新ウイグル語)と呼ばれるものです。

 現代ウイグル語古代ウイグル語の要素を継承していることはほぼ間違いなく、ともにチュルク諸語に分類されますが、古代と現代のウイグル族の間には断絶があると考えられており、言語においても古代ウイグル語現代ウイグル語の間の差異は大きいので、現在ではこの両言語を明確に区別して扱うことが一般的です。
 今回の本、
『現代ウイグル語四週間』『現代ウィグル語辞典[ウィグル語―日本語]』は書名の示すとおり現代ウイグル語を扱っていますので、ここでも現代ウイグル語について説明することにします。

 現代ウイグル語は、トルコ語を代表とするチュルク系言語の一員を構成し、ウズベク語とは最も近い関係にあります。話者数は中国の新疆ウイグル自治区で約700万人、隣国のカザフスタンやキルギス、ウズベキスタンなどで数十万人、その他パキスタンやアフガニスタン、トルコなどでも数千人のウイグル族がこの言語を使用しています。現代ウイグル語話者数はチュルク諸語の中では、トルコ語ウズベク語アゼルバイジャン語カザフ語に次いで5番目に多いと推定されています。

 現代ウイグル語で使用される文字は、新疆ウイグル自治区ではもともとアラビア文字を使用していましたが、1959年に漢語拼音字母(中国語のピンイン)を基にしたラテン文字による正書法が考案され、1965年からはアラビア文字と併用された時期がありました。その後の一時期、アラビア文字の使用が禁止された時期がありましたが、1984年以降はふたたびアラビア文字(改良アラビア文字)が使用され現在に至っています。
 旧ソ連から独立した各国内に居住するウイグル族の間では1930年から1946年まで、アラビア文字に代わってラテン文字が使用され、その後は現在に至るまでキリル文字が使用されています。

 現代ウイグル語にはいくつかの方言があります。新疆ではウルムチ周辺の方言が一般的に標準語と考えられていますが、実際には、文語のウルムチ方言音による読書音形式が標準語形式として扱われています。一方、旧ソ連領内ではカザフスタン、キルギス両国内の現代ウイグル語方言を基礎として文語が作られ、主にカザフスタンの最大都市アルマトイから新聞などの印刷物が出版されています。

 現代ウイグル語の母音と子音には主に次のようなものがります。ここでは、新疆ウイグル自治区ウルムチの方言を例に挙げます。

 母音
 [ ɑ ] [ a ] [ æ ] [ ɛ ] [ e ] [ i ] [
I ] [ ɨ ] [ ə ] [ o ] [ ø ] [ œ ] [ U ] [ u ] [ Y ] [ y ]

 子音
 [ p ] [ b ] [ t ] [ d ] [ k ] [ c ] [ g ] [ q ] [ʧ] [ ʤ ] [ f ] [ ɸ ] [ w ] [ s ] [ z ] [ ʃ ] [ j ] [ ʒ ] [ x ] [
ɣ ] [ h ] [ ɦ ] [ m ] [ n ] [ ŋ ] [ l ] [ r ]

 これらのうち、[ ŋ ] は語頭に立つことはなく、[ f ] は借用語のみに現れます。
 ウルムチ方言は、実際には、文語形式との間にかなりの差異があるので、その方言音を用いた読書音は、文語形式との間にかなりの差異があると言い換えることができます。母音 i は中舌の [ ɨ ] で発音されることが多いなどはその例です。

 チュルク諸語の大きな特徴である母音調和は現代ウイグル語にも見られますが、本来の ïi i へ融合したこと、その i が関与して、後舌広母音の前舌狭母音への逆行同化が起こったことなどから、他のチュルク諸語に比べてかなり不規則な面を持つに至りました。
 
チュルク諸語の母音調和の基本となる口蓋調和では、前舌母音と後舌母音とがひとつの語の中で共起することは許されませんが、現代ウイグル語では、前舌母音 ie は後舌母音と共に存在することが許容されています。

 文法面では、SOVという語順を持ち、修飾語は被修飾語に先行し、接尾辞と後置詞によって文法範疇を示すという点においては他のチュルク諸語と変わりません。しかし、母音調和に見られる逆行同化や弱化、縮約などにより、古代ウイグル語や他の保守的な現代チュルク諸語に比べると、その形態はかなり複雑なものとなりました。
 
現代ウイグル語の語彙の中には、イスラーム受容後に大量に流入したアラビア語ペルシア語、さらにはモンゴル語などの借用語が見られ、近年では地域によってロシア語中国語からの借用語が多く見られます。 

 『現代ウイグル語四週間』は、現段階で一般的に入手可能なほぼ唯一の日本語による現代ウイグル語の学習書です。構成は大学書林の他の「四週間シリーズ」と特に変わりません。本書のまえがきによると、この本はウルムチ出身で岡山大学理学部院生のディルシャット・スルタン氏の話される現代ウイグル語を記述的に研究したものが基になっているとのことです。そういった意味でも「四週間シリーズ」のスタイルで著者の研究成果をまとめあげたものと言えます。学問的成果と実用とはかたく結び付いていると信じている、という著者の言葉にあるように、実用的な学習書というよりはやや学術的なスタンスに寄っているという印象があるため、本書で現代ウイグル語を学ぼうという際には、多少なりとも言語学や音声学の知識があったほうが理解しやすいでしょう。また、現代ウイグル語チュルク諸語の中でも発音がやや複雑なため、オーディオ教材による耳からの学習が望ましいと思いますが、残念ながらこの本にはカセットやCDなどは存在しないようです。

 『現代ウィグル語辞典[ウィグル語―日本語]』は、泰流社から出版された本で、現在は絶版になっています。著者は、本の紹介 其の十三で紹介した同じ泰流社の『やさしいウズベク語―文法と会話』の小松格氏です。まえがきによると、1982年、新疆人民出版社から出された『維漢辞典』漢語(中国語)部分を日本語に訳したものということです。本書ではラテン文字アラビア文字による表記が掲載されていますが、ラテン文字表記は先の『維漢辞典』によるもの、アラビア語表記は『現代維吾尓文学語言正字詞典』(1985年)の文字表記をそのままコピーして使っています。本書の中で、g(i)ram とか zimin [ ze- ]paynap [ -b ] のように ( ) [ ] で併記されたものがあるのは、『維漢辞典』ラテン文字表記と『現代維吾尓文学語言正字詞典』アラビア文字表記に多少の違いがあるためです。
 また著者が
ウズベク語の学習書を執筆した経緯もあるためか、ウズベク語現代ウイグル語の並行学習を勧めています。実際、現代ウイグル語ウズベク語は非常に近しい関係にあるので、そういった言語同士の並行学習は互いの相違点や類似点を理解し合いながら進めることができ、幅広い言語の学習に興味のある方には有効であると言えます。
 僕が所有している泰流社の本がほとんどそうですが、この本も神保町の古書店で850円で入手しました。定価で購入しようと思ったら14,000円もする高価な本ですが、
現代ウイグル語の辞書は他に大学書林から『現代ウイグル語基礎1500語』という語彙集が手に入るくらいなので、850円なら手元に置いておいても損はないかなと思います。  

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